薩摩川内市のニニギノミコトにまつわるお話
今回は、本市小中一貫教育読本「ふるさと薩摩川内学」に紹介されているニニギノミコトに関するお話を紹介いたします。
ちなみに2020年は、日本書紀が720年に編纂されて1300年の節目の年です。
薩摩川内市には、古事記や日本書紀に登場する神話に関わる場所が残されています。
千の台が川内(せんだい)の語源?
「アマテラスオオミカミの孫のニニギノミコトが日向の高千穂の峰にサルタヒコの案内で降り立った。その後、吾田(あた)でアタツヒエ(コノハナサクヤヒメ)と結婚して”せんだい”に来られて千の台(せんのうてな)を築いて、この地方を治めた。」という話です。千の台は「せんだい」の語源とされています。
神様が眠る可愛山陵
新田神社のある神亀山(しんきさん)には、この神話に登場するニニギノミコトの可愛山陵(えのさんりょう)やコノハナサクヤヒメ(ニニギノミコトの妻)の端陵(はしのりょう)、ホスセリノミコト[ニニギノミコトの第一子:海幸彦(うみさちひこ)]の中陵(なかのりょう)があります。
少し離れて、ホアカリノミコト(ニニギノミコトの第三子または兄)の川合陵(かわいりょう)があり、これらは神様の墓とされています。
可愛山陵のほか、ヒコホホデミノミコト(ニニギノミコトの第二子:山幸彦)の高屋山上陵(たかやさんじょうりょう)- 霧島市や初代神武天皇(じんむてんのう)の父(ウガヤフキアエズノミコト)と母(タマヨリヒメ)の吾平山上山陵(あいらさんじょうりょう)- 鹿屋市があり、神代三山陵(じんだいさんさんりょう)と呼ばれています。
山陵の候補地は、宮崎県などにもありましたが、明治7年に明治政府が正式に決めて、その後、宮内庁が管理しています。
挿絵イラスト:川内歴史絵日記より