穏やかな秋晴れに恵まれたら、「身近な場所に、こんなところがあったんだ!」という歴史散歩はいかがでしょうか。薩摩川内市の地域おこし協力隊、松元由香さんに案内いただき、平佐西に点在する史跡をまわってきました。歴史散策(1)皿山天主堂跡に続く2回目は「平佐焼窯跡」をご紹介します。
平佐焼窯跡
祖父母宅や古い納屋などで、薄いブルーの絵柄が描かれた磁器を目にしたことのある方もいらっしゃるのでは。かつては平佐郷を中心に複数の窯があり、盛んに生産されていた平佐焼。発祥は江戸時代後期の1776年。第10代徳川家治の治世で、前年には『解体新書』が発刊されています。長崎平戸を経由して欧州や中国から先進的な知識や技術がもたらされ、各地で新たな産業が興っていた時代といえましょう。
1776年、平佐郷白和の今井儀右衛門が、現在の阿久根市脇本に窯を開くものの、経営に行きづまり閉窯。その後、平佐郷の領主・北郷久陣(ほんごうひさつら)の家臣、伊地知団右衛門が領主の援助を取りつけ、天辰の皿山に窯を開き、肥前有田の陶工を招いて磁器の生産を始めたのが、平佐焼の起源といわれています。
薩摩川内市指定文化財・平佐焼窯跡(平佐現窯)
この平佐現窯を中心に、最盛時には複数の窯が点在していた平佐郷。当時、薩摩の陶器はもろくて日用品に適さず、肥前から磁器を購入していました。平佐窯を開いた理由には、領内で生産することで購入を抑え、さらには海外へ輸出することで産業振興を図る狙いがあったとみられます。
平佐焼の主原料となった天草原産の陶石(※資料提供・平佐窯)
陶石は産地である天草から船便で取り寄せていました。原料の搬入、磁器製品の搬出には川内川の水運を利用していたため、川内川にほど近い皿山一帯に窯を設けるのが合理的だったのです。
窯跡は草に覆われています。現在、保護のため、中に入ることはできません。今回、特別に許可を頂き、中の様子を取材しました。
窯跡の崩壊を防ぐ処置が取られています。倒壊の危険がありますので、通常の見学は窯の外から行ってください。
炎の跡がうかがえる窯壁。
平佐の磁器生産は領主北郷家の直営となり、一時は生産量、質ともに非常な進展を遂げました。薩摩藩内はもちろん、琉球や奄美大島にも送られ、長崎港を通じ海外へも輸出されていましたが、明治初年をピークに次第に衰退していきました。明治4年の廃藩置県により、領主北郷家の保護を失ったことや、一大産地である有田の磁器に圧されたことなどが背景にあるとみられます。昭和16年(1941年)を最後にその歴史を閉じました。
昭和42年に市の指定文化財となっています。見学の際は、現状保護にご協力ください。
窯跡付近では、盛んに生産されていた往時の名残が見られます。平佐窯の製品は、青みがかった白磁に青い染付で描かれたもの、赤絵、独自の手法によるべっ甲焼など、バラエティに富んだものでした。肥前から陶工、長崎から画工を招くなど研究熱心で、明治2年にはフランス人の指導者により、海外向けのデザインや色彩を取り入れたりもしています。薩摩焼のみならず日本の焼き物においても、異彩を放つ画期的な製品を生みだしていたと評価されています。
平佐窯工房にて
献上品となる芸術的なものから日用品まで、多種多様な製品を生みだしていた平佐焼。その輝きは、川内歴史資料館、鹿児島市立美術館、鹿児島県歴史・美術センター黎明館などで鑑賞することができます。窯跡を訪ねることで、天草から川内、長崎から世界へとつながっていた水運の歴史、そして明治維新へと向かっていく薩摩藩において、その一端を担っていたであろう平佐郷の殖産興業の炎の名残を感じられると思います。
参照:
薩摩川内市地域おこし協力隊 平佐西地区 歴史遺産お守り隊 松元由香さん制作資料
「平佐焼のことを知っていますか?」
講談社『日本のやきもの16 薩摩』
平佐窯所有・天草陶石、平佐焼展示品、製品
平佐西の歴史散策(3)では、古くて新しい遺跡「天辰寺前古墳」を訪ねます。