女子マラソン黎明期に輝いたランナー、外園イチ子さん(3)

今や隆盛を極める日本女子マラソン。その黎明期を駆け抜けた薩摩川内市出身のひとりのランナーがいた。外園イチ子さん。今からちょうど40年前、第一回東京国際女子マラソンの熱狂のなかに、彼女の姿もあった。※女子マラソン黎明期に輝いたランナー、外園イチ子さん(2)からの続きです。

世界で初めて国際陸上競技連盟(IAAF)が公認する女性限定のマラソン大会となった。公式パンフレットより

大会を伝える新聞記事。イチ子さんの名も記されている。

日本で初めて開催された国際陸連公認の女子フルマラソン大会に、イチ子さんは招待選手として参加する。結果は、日本人選手の2位、全体でも13位という堂々の成績。

当時の記録紙が時代を物語る。

外園イチ子の名は、松田千枝、小幡キヨ子、美智子ゴーマン(日本出身・米国籍)らと共に、女子マラソン黎明期を彩るランナーとして刻みこまれた。(写真左よりイチ子さん、松田さん)

時は進み、1984年ロサンゼルス五輪。この大会から女子フルマラソンは正式競技となり、日本からも増田明美、佐々木七恵が参加。「もう少し後だったら、イチ子さんもオリンピック、出てたかもね。そんなふうに言われたこともあります」と記憶をたどるイチ子さん。そのころには、競技の第一線から退いていた。

東京国際女子マラソンの翌年、1980年に疲労骨折をし、走れない日々が続いた。「それまでずっと健康体で病気やケガなんてしたことありませんでしたから」。同年フルマラソンに復帰、完走を果たすものの、かつてのようなタイムは出なかった。「トレーニングや食事の知識や理論も当時は発展段階でした。身体が軽くなれば早くなる、と思って少し無理なダイエットをしてしまったかな」。女性に向けて伝えたいこととして、イチ子さんが「食事の大切さ」を挙げたのには、自身の苦い経験があった。「自分の健康のために、そして食育にもつながるから、お子さまのためにも、食事には気をつけて」とエールを送る。実際に、イチ子さん自身も肉・魚を一日ずつ交互に食べる、9品目の食品を3日で摂るようにするなど心がけているそうだ。「肉・魚・野菜・果物・貝・海藻・卵・油・豆、の九つ。このなかで、貝っていうのが難しいのよね」と笑う。

ソウル五輪女子マラソン金メダリストのロザ・モタさんと。かつてのレース仲間が揃った。写真前列中央イチ子さん

1999年に薩摩川内市に帰郷。それから65歳ごろまで、気軽なランニングなどは継続し、振り返れば「32年間、走り続けてきた」というイチ子さん。マラソン・水泳と、体を動かす時を経て「これからは頭を鍛える」と現在、川柳に没頭する日々を送っている。”良心に恥じない泡で世を洗う”。お気に入りの自作として挙げた一句に、競技に打ち込んだ経験が培った清廉な自律と品性がうかがえる。

「どんな日々でしたか?」との問いかけに、「すべてが新鮮な・・・嬉しさ、悔しさ、喜び。いろんな経験をさせてもらいました」。ゆっくりと言葉を紡ぎ、目を細めたイチ子さん。「懐かしいわね、あっという間だった気もするし、こうして写真を見ると、あらこんなだった?」とほほ笑む。のちに隆盛を極めることとなる日本女子マラソン。その夜明けに立ち会い、きら星のごとく駆け抜けた外園イチ子さん。今もいきいきと、表情豊かに話す横顔には、校庭へと走り出ていた少女のころと同じ、はつらつとした光があった。

写真・資料提供:外園イチ子さん