穏やかな秋晴れに恵まれたら、「身近な場所に、こんなところがあったんだ!」という歴史散歩はいかがでしょうか。薩摩川内市の地域おこし協力隊、松元由香さんに案内いただき、平佐西に点在する史跡をまわってきました。歴史散策(1)皿山天主堂跡、歴史散策(2)平佐焼窯跡、歴史散策(3)天辰寺前古墳に続き「北郷家墓地と兼喜神社」を訪ねます。
薩摩川内市指定文化財 北郷家墓地
天大橋に至る道路、スポーツクラブやドラッグストア、精肉店が立ち並ぶ通り沿いにぽっかりと開けた場所があります。春には桜の名所となるこの奥に北郷家(ほんごうけ)墓地があります。
通りから車で入れます。
詳しい案内板が設置されています。まずは一読しましょう。
北郷家の初代資忠(すけただ)は、第4代島津忠宗の子で、日向の北郷院(現在の宮崎県都城市)にいました。1595年の所領替えにより、第10代時久は都城から宮之城に移動、その三男三久(みつひさ)は平佐の地に来ることになり、平佐北郷家の初代となりました。
この場所は、旧平佐城の東の一角(庵之城)で、明治初年まで北郷家の菩提寺である梁月寺(りょうげつじ)がありました。
北郷家墓地の入り口。歴史を感じる石段を登ります。
石段を上がって、右手前にあるのが初代三久の墓です。重厚な五輪塔が高さ約2.5メートルの石屋に納められています。
平佐北郷家歴代の領主とその妻、子どもたちの墓や、梁月寺僧侶の墓塔が並びます。
歴代領主の墓は案内図に従い、ひとつずつ確認することが可能です。
順番にたどり、時代による変化を見つけてみるのも良いですね。
冒頭の写真は墓地の奥、高台からの眺めです。歴代領主に見守られるように、例年、桜の季節には墓地横の庵之城広場で「ひらさ北郷さくら祭り」が開催されています。
取材時(令和2年10月上旬)には台風の影響で季節外れの桜が咲いていました。
朝鮮出兵、北越戊辰戦争の軍事面、白和(しらわ)の唐人町、平佐焼、歌道といった文化面、薩摩藩家老などの要職を歴任した政治面など、多方面で活躍した北郷家。鹿児島では島津家代々の墓がある福昌寺跡(鹿児島市)が有名ですが、こちら平佐北郷家の墓も、その歴史と精神を今に伝える素晴らしいものだと感じました。
続いて、すぐ近くにある兼喜神社を訪ねました。
平佐北郷家初代の三久が兄相久(すけひさ)の生涯を哀れみ、その霊を慰めるために創建したと伝えられています。例祭は9月30日で、祭典のあとには流鏑馬が、大正8年ごろまで行われていたそうです。
昭和59年に修復された神殿と拝殿には、美しい彫刻がほどこされています。
昭和61年に市の指定文化財となりました。
境内には桜が植えられています。川内商工高校のふもとにあり、地域の皆さんに親しまれている神社です。
最後に、兼喜神社の前の通りを川内駅の方向に進み、平佐西小学校を訪問しました。敷地内には平佐城址石碑があります。
平佐西小学校は1872年(明治5年)に外城第28郷校として設立された歴史ある小学校です。平佐出身の偉人のひとりに有島武がいます。武は第13代北郷久信(1831~1887年)に仕えた武士で、明治維新後、大蔵省の官僚として国際局長や横浜税関長などを務め、退官後は実業界で活躍しました。
石碑・慈眼観
有島武の長男・有島武郎(たけお)、次男・生馬(いくま)、四男・里見弴(さとみとん)の三人は、作家、画家として、大正昭和の文壇・画壇で活躍し「有島三兄弟」として知られています。川内まごころ文学館には三兄弟の作品をはじめ、ゆかりの品々が展示され、その生涯や功績を学ぶことができます。この石碑は、1983年に里見家から平佐西小学校に贈られた書をもとに建てられたものです。慈眼観とは「いつくしみの目ですべてを見ること」「天地にあるすべての物や人を愛して大切にすること」を意味し、里見弴の「まごころ哲学」を象徴する言葉、なのだそうです。
平佐西地区に残る史跡を4回に渡りご紹介しました。身近な郷土の歴史を知るにつれ、普段の何気ない暮らしも、先人たちが守り伝えてきたものとひと続きになっていることを改めて感じます。古墳時代から明治維新までダイナミックにタイムトラベルできる平佐西地区。ひとつでもふたつでも訪れて、その雰囲気を味わって頂けたら嬉しいです。
地域おこし協力隊・平佐西地区担当の松元由香さん。「平佐西歴史お守り隊!」ツイッターにて日々、町の様子や活動について情報発信しています。こちらもチェック!
参考資料:せんだい歴史絵日記、ふるさと薩摩川内学、平佐西小学校ホームページほか
平佐北郷家墓地
(平佐北郷氏菩提寺・長照山梁月寺跡)