2019年4月。新元号「令和」が発表されました。その出典となった万葉集も含め、日本の歴史と文化に思いを馳せた方も多かったのではないでしょうか。薩摩川内市は天孫降臨のニニギノミコトが眠る「可愛山陵」をもち、現在の天皇家につながる神々の里でもあります。新緑の萌えいづる春の日、知る人ぞ知る3つの御陵をめぐる「神亀山ウォーキング」に参加しました。
参加者は薩摩川内市内外より70人あまり。好天に恵まれ、大勢の参加者でウォーキングスタートです!
新田神社拝殿前に集合。二班に分かれ、普段は見ることのできない拝殿内を見学。
拝殿に向かって二礼・二拍手・一礼。 薩摩川内市観光ボランティアガイド いたっみろ会の皆さんによるガイド付き。
拝殿内は撮影禁止となっております。新田神社の権禰宜(ごんねぎ)による新田神社の歴史や年中行事などの講話がありました。当日の拝殿内では、新入学や新社会人の皆さん、新年度を迎えた企業の皆さんなど、大勢の方がいらしておりました。さすが、由緒ある薩摩国の一の宮です。
大楠の緑が影をなす階段を降りていくと。。
参道脇にある大楠。この楠には長寿院盛淳(ちょうじゅいん・もりあつ)の彫った木像が奉納されています。盛淳は、島津氏が関ヶ原の戦いに敗れ、かの有名な敵中突破をはかった際、島津義弘の影武者となり戦死したといわれる人物です。
次に新田神社拝殿・右奥にある「可愛山陵」へ。
ニニギノミコトが眠る可愛山陵。明治七年、明治天皇による御裁可により認定され、現在に至るまで宮内庁により管理されています。
可愛山陵から階段を降りていくと、亀のかたち(手足、顔)に見えるという木の根元があります。パワースポットとして人気だそう。
ここからいよいよ、知る人ぞ知る「中陵(なかのりょう)」と「端陵(はしのりょう)」へと向かいます!新田神社を出て、国道三号方面に歩いて行きます。
右に御陵下運動公園が見えてきたら、左手「さつま薬局・薩摩川内店」角を左に入り、小道を進みます。
「グリーンライフ川内」「亀山苑」の裏手になっている一本道を歩いて行くと、こちらのフェンスにたどり着きます。施錠はしてないので、扉を開けて入ります。
フェンス入り口から左手に進むと「中陵」鳥居があります。苔むす石段を登ります。
中陵。ニニギノミコトの子、ホノスソリノミコト(海幸彦)の墓といわれています。
フェンス入り口から右手に進んでいくと「端陵」鳥居があります。こちらも石段を登っていきます。
端陵。ニニギノミコトの妃、コノハナサクヤヒメの墓と伝えられています。
石棺ではないか?とされているのがこちら。端陵の一角にあります。
南さつま市金峰町にあるコノハナサクヤヒメ像。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメは現在の南さつま市・笠沙にて出会い、結ばれ、ホノスソリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ヒコホホデミノミコト(山幸彦)の三皇子をもうけました。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメから見て、子・ヒコホホデミノミコト-孫・ウガヤフキアエズノミコト、そしてひ孫が初代・神武天皇となります。
その美しさから「小伊勢」と称される「吾平山陵」ウガヤフキアエズノミコト御陵
鹿児島空港近くにある「高屋山陵」ヒコホホデミノミコト御陵
初代神武に連なる三代・ニニギノミコト「可愛山陵」が薩摩川内市、ヒコホホデミノミコト「高屋山陵」が霧島市、ウガヤフキアエズノミコト「吾平山陵」が鹿屋市と、すべて鹿児島県にあります。いずれも明治時代に制定されたものです。詳しくは2018年12月に開催された「神代三山陵ツアー」の様子をご覧ください。
神話のロマンに浸りつつ、端陵をあとに。
ふたたび新田神社へと戻ってきました。風に舞う桜の花びらがより一層、神話の世界へと導いてくれる心地がしました。
霧島市と鹿児島市よりご参加のご姉妹。「新田神社には来たことがありましたが、可愛山陵、中陵、端陵とすべて初めてでした。歴史や寺社仏閣が好きなので、よく訪ね歩いています。ウォーキングも心地良かったです」
神亀山ウォーキング・スタッフの皆さん
主催者代表より「戦後、日本の神話が教育の場から消えてしまった一面がある。地域の大切な宝として、可愛山陵やそれにまつわる神話の世界を多くの市民に知って欲しいです」という言葉がありました。地元の参加者からは「薩摩川内市民として60年あまり。新田神社のすぐそばに暮らしていながら、中陵、端陵、知りませんでした!家族や友人を誘って、参拝したいと思います」との声もありました。いにしえより、人々の暮らしを見守り続けてきた新田神社・可愛山陵。神の代を振り返りながら、新たな時代へと歩みを進めた「神亀山ウォーキング」。このレポートを参考に、ぜひ中陵・端陵へも訪れてみてください。
◇新田神社・可愛山陵・中陵・端陵
社務所:0996-22-4722